いつだってヒーロー

こんにちは、megumishと申します。現在精神的に病んでいて大学休学中の身の一浪二留の学部生です。

もしかしたら自分と同じような悩みを持ったACHD―成人先天性心疾患―患者がいるのではないかと思いこのブログを立ち上げました。

このブログを書くことで少しでもACHD患者精神面でのケアができたら幸いです。

とはいっても素人の所感ですので気休め程度に読んでいただければいいなと思います。

※精神面の話ですがいわゆるADHD―注意欠陥・多動性障害―とは一文字違いであるものの、関係はありません。

まえがき

ACHDについて

ACHDは Adult Congenital Heart Disease の略で

日本語に訳すと成人先天性心疾患となります。

成人なのに先天性という言葉はおかしな名称だと思うかもしれませんが

ACHDは先天性心疾患を抱えたまま大人になった人たちの病状のことを指します。

そもそも先天性心疾患についてご存知でない人もいるかもしれません。

簡単に説明しておくと、生まれたときから心臓の奇形によって異常を来たしている病状のことを総称して先天性心疾患と呼びます。

(専門家ではないので間違っていたことを言っていたらすみません)

くわしくは下記のサイトが参考になるかと思います。。

https://www.kango-roo.com/sn/k/view/2312www.kango-roo.com

僕の抱えている病気

僕が生まれつき持っていた病気は先天性心疾患のうち三尖弁閉鎖症というものです。

先ほど紹介したリンクの中では三尖弁閉鎖不全症という名称で説明されているものです。

また高校生の頃に(医者曰く)より長く生きるための手術をしたのちに徐脈と呼ばれる

(そのまま生きていくのが困難な程度に)心臓の脈の動きが小さくなってしまう病状も抱えているため、現在ペースメーカーを埋め込み中です。

なぜ僕が精神を病んでしまったか

社会になじむACHD患者

ACHDは一目では普通の人と違いが分からない内部障害です。

そのため、ある意味では普通の人と何ら変わりなく社会と交わっていくことも可能です。

実際、僕は高校生から大学生ぐらいの時期(現在は大学生、精神的な理由により休学中)は心臓の病気を抱えていると

周りに言わなければそれが分からない程度にはなじんでいたと思います。

つまり、僕自身は病気とは分からない程度に活動可能で、周りと比べれば確かに体力や運動能力がない程度の人間だと思ってもらえればいいと思います。

自立と先立つ不安

周りと同じように振る舞えば、一見病気とは関係なく生きていける。しかし、それでも病気は抱えたままですから不安はあるものです。

「病状が悪化したらどうしようか?」「突然、動くのも困難な状況になったらどうなるのだろうか?」

今まで、そして現在も自分は周りに世話をしてくれる家族がいます。

だけど、未来を見るとそうではないです。このように恵まれた環境がいつまでも続くとは到底思えないのです。

現在でも親が年を取って少しずつ身体面でも経済面でも弱っていっていることを感じています。

自分が特に不安なのはペースメーカーを埋めているため、人生のうちに何回か手術が必要なのが確定していることです。

これまでは家族の献身的なサポートにより、入院生活中もとくに困難を感じることなく生活していくことが可能でした。

しかし、これから先を考えていくと決してそうではないです。親自身がサポートを必要とするような状態にもなるでしょうし、自分のことにまで手を回す余裕もなくなっていくのでしょう。

そうした不安は割と小さい頃(といっても中学生ぐらいからだろうか)からありました。

母親から何度もいつかは自分の力で生きていけるようにならないといけないということを聞きましたし

実際自分もそうならなければいけないのだろうと思っていました。現在でもその気持ちは変わりません。

おおよそ、上で述べたようなことはACHD患者の方以外でも考えうることだと思います。

すごい(特別な)人間になりたかったこと

昔から、思っていました。

「どうして僕だけがこんな目に合わないといけないんだろう?」

「周りと比べれば劣っているのにどうしてこんなにも構ってもらえるのだろう?」

これら二つが合体して、もしかしたら自分は特別な人間なんじゃないかと言うおごりが生まれていきました。

でもその時点では特に優れたところもなかった子供でしたから、未来にかけていました。大人になったらきっとすごい人間になれるのだろう…と。

しかし年をとるに連れてそういったものは全く根拠のない幻想だと分かっていきました。

「自分はとくに理由もなく心臓の病気を抱えて生まれてきて

家族と学校側の対応に恵まれて、たまたまチヤホヤされていただけなのだ」と。

そうして、大人になったらきっとすごい人間になれる。いやならなければならないという執着だけが残りました。

前に述べたようなおごりの中生きてきたわけですから、これまでとくに頑張った経験もありませんでしたし

努力するのがとても苦手でした。そうして自分はすごい人ととは到底思えないような生き様のままついに成人してしまいました。

自立するということとすごい人間になるということ

自立するということとすごい人間になるということは別のことです。直交することであり、それらに因果などはないはずです。

しかし自分の頭の中では

「自立するためにはすごい人間にならなければならない。」

という確かな思いがありました。

しかし、先ほども書いた通り自分の思い描いたようなすごい人間になることはできませんでした。

現状と理想との差、それと同時に導き出される自立できないんじゃないかという不安、これらが僕が精神的に参ってしまったことの理由です。

いつだってヒーロー

僕と同じような人生を送ってきたACHD患者の方なら分かると思いますが、死ぬ―人生を悲劇の一幕で終わらせる―チャンスはたくさんあったと思います。

悩んでる人がここを見て実践しては元も子もないので詳しくは書きませんが。

でもこのブログを見ているということは辛いことがあろうとそういうことを実行に移さずに生きてきた人たちなのだろうと思います。

この記事で最後に伝えたかったことはこれからもそうやって生きようよということです。

僕の大好きなバンドにamazarashiというロックバンドがあるのですが、そのバンドの「ヒーロー」という歌の中にこんな一言が出てきます。

「誰だってヒーロー」

そのあとにこう続きます。

「そんなわけはねぇよ」

衝撃的ですね。僕も(世界を救う)すごい人間にあこがれていたわけですから、それがあっさりと歌詞の中で否定されるわけです。

でもよくよく考えてください。今まであなたは誰か一人だけは必ず救っているはずです。現在進行形で。

それが誰かはあなた自身が分かっているはずです。なぜならあなたは今、生きているのだから。

最後に「ヒーロー」の歌詞の一番最後をここに載せておきます。

「いつだってヒーロー」

www.youtube.com